小説 キムタク、出現す

夕方のラッシュの時間帯で車内は混み合っているというのに、バスの冷房はほとんど入っていないように思えた。吹き出し口に手をかざしてみる。弱々しい冷気がかすかに出ているだけだ。三田瞳子はしだいに気分が悪くなってきた。とうとう我慢できなくて、手前の停留所でバスを降りた。

 夏休みが始まったばかりの、暑い夕刻だった。瞳子はあと四つ分の停留所の距離を歩くことにした。気分は重かった。それはバスの中での不快さばかりではない。

最近の瞳子は家に帰りたくなくなっている。子どもの問題で頭がいたかったのだ。帰って子どもをみて、また小言の種がみつかって、叱って、イライラして。もう叱るまい、大目に見ようといつも思うのだが、そんな時に限って、息子は叱られる種を蒔いてくる。何かをしでかす。他人からみればつまらないようなことさえ、たびかさなることに、つい叱る口調が強くなってしなう。時には叩いてしまう。その叩きかたもエスカレートしてくる。そんなことをしても何にもならないとはわかっているのに感情がおさまらない。

 瞳子の家族は二人の子どもたちである。高校生になった娘と小学校四年生の息子。夫はいない。離婚が成立してもう半年がたとうとしている。しかし、夫と暮らしていないのはもう何年になるのか。

 やっと瞳子の住む団地内に入る。そして三階までに階段を重たそうに上がっていく。ドアをあけると、鍵はかかっておらず、CDのはでな音が耳に入ってくる。

「玲子ちゃんいるの? ただいま。」

声はしない。娘の部屋をのぞく。

「なんだ、帰ってきたの。おかえりなさい」

「ちょっとその音、大きすぎるわよ。誰か入ってきてもわからないわよ。ねえ、しんちゃんは?」

「さあ、遊びにいってると思うよ。サッカーボールがないから、広場でサッカーしてんじゃないの。ほら、おかあさん、この曲いいと思わない? ユキちゃんの新曲よ」

「また、ユキちゃんか。おかあさんは興味ないって。趣味が違うの」

「でも、ほら、いいじゃない。今度のコンサート、絶対いくんだ。ナオちゃんが、ファンクラブに入ってるから、一緒にチケット取ってくれるって。この新曲ねえ…」

「だから、興味がないって」

「じゃあ、これだけ聞いて。ユキちゃんのじゃないけどさあ、コンサート会場のアルバイトあるんだって。一日だけらしいから、してもいい? ナオちゃんたちが行こうって言うんだよ。ただでコンサート聞けるなんていいと思わない?」

「アルバイトはだめよ。そんなことする暇があるなら、勉強したら。それにそんなうまい話はないよ。お金を稼ぐことは大変だし、簡単にお金が手に入ることには罠があるの。玲子にはわからないかもしれないけれど」

「ユミコみたいにテレクラでバイトするより、いいじゃん」

「玲子ちゃん、あなたもそんなこと思ってるんでじゃないでしょうね」

「テレクラなんてつまらないよ。でもねえ、コンサート会場のバイトは…」

「だめなものはだめよ。だいたい、ただでコンサート聞けるって発想が甘いのよ。ちょっと、おかあさん忙しいから。今日は塾の日だからね、ちゃんとしんちゃんと留守番しておいてよ」


 瞳子はダイニングへ入った。娘の部屋とダイニング・チッキン、もうあとは一つの部屋しかない。その一つには息子の伸也の机とタンス二棹、それに瞳子の書棚が並んでいる。その間に瞳子と伸也が布団を敷く。せまい部屋だ。
瞳子はあまりの暑さに扇風機をかけ、まずストッキングを脱いだ。そしてエプロンをとる。ふとキッチンをみると、洗いかごに食器が山のようにつみあげられている。

「玲子ちゃん、これなによ。どうしてかたづけておかないの」

大声で娘の玲子に言う。玲子はめんどくさそうに顔を出す。

「だから、洗っておいたって。伸也よ。拭いてかたづけなさいっていってるのに、何もしないで遊びにいくんだもの。伸也が悪いよ」

玲子はすぐに部屋へひっこんだ。

瞳子はしかたなく、腹立たしい思いをこられながら、食器をかたづけた。さすがに玲子は米は洗っていて、すぐ炊飯器のスイッチをいれる。なべに水をいれ、いりこを浸す。魚を焼いて、みそ汁と、そう、なすがあったから、焼きナスにキャベツの甘酢あえでもつくろうか、と材料をだしながら、考える。魚を解凍したり、ガスこんろに鍋をかけたりしながら、その合間にベランダへ洗濯物をとりこみにいく。

ベランダは昨日の土いじりのまま、散らかっている。伸也がスイカを食べたあと、どうしてもスイカの種をまいてみるんだといって、プランターの土をいじっていた。それがそのままだ。どうしてかたづけないんかしらと瞳子は足で土をける。

 洗濯物を取り入れたあとは料理を続ける。あらかたできあがったとき、伸也が帰ってきた。


おかあさん、階段にカメムシが死んでいたよ。どうする?」
「外に捨てておいてよ」

「あのね、今年はカメムシがいっぱいなんだって。コウちゃんのお母さんがいってたよ。カメムシって屁っこき虫っていうんだって」

「またコウちゃんちに行ってたの」

「うん、でもちょっとだけだよ。ファミコンなんてしてないよ。外でサッカーしてたんだから」

「ファミコンなんてしてないよとわざわざ言うとところがあやしいな。またしてたんでしょ。コウちゃんのお母さんにも注意されてたじゃないの」

「してないよ。してないってばあ」

「さあ、ごはんよ。おねえちゃん、よんどいで」


 いつものように夕食が始まった。子どもたちはよく話し、よくけんかする。なるべく話を聞くようにはするが、疲れた瞳子にはうるさくもある。最近は話もしたくないし、聞きたくもないことが多い。子どもたちがとにかく自分の話たいことだけを先を争って話すので、三人の会話にはならず、またよけいに瞳子はイライラしてしまう。娘は気に入りのタレントの話、息子はまだ虫の話をさかんにしている。

 瞳子はその話をうわのそらで聞いていた。頭の中には夏休みに入る数日前にかかってきた伸也の担任の先生からの電話のことがまだ頭の中でひかかっていた。

「伸也くんはどうも最近乱暴で、よくけんかをするんです。言葉を聞いていると、すごい言葉使いをするので、注意はするのですが、おうちの方でも話をして下さい」
とそんな内容だった。

反抗期にもさしかかっているとは思うけれど、家での伸也をみていると、とてもそこまで乱暴には思えない。なにかイライラしているのだろう。私がいけないのかと瞳子は思う。伸也にはその時話をしたが、
「うん、わかった、もうしないよ、気をつけるよ」
で終わっている。伸也の心の中が瞳子には見えなかった。

何か原因があると思う。それを見つけて解決してやらない限り、いくら言葉で注意をしてもかわらないのではないかと、あれこれ思い惑う。私のイライラのせいか、結局離婚したことが伸也の心を傷つけているのかと瞳子は自分をせめる。

そんな状態がずっと続いていた。伸也の明るいおしゃべりを聞くにつけ、この子がどうしてと、ますます暗い気持ちになってしまう。 それでも食事はおなかにおさまり、瞳子が箸を置いた時、伸也のおかずがほとんど減ってないことに気がついた。

「あら、しんちゃん、どうして食べないの」

「……」

「わかった、コウちゃんちでおやつを食べすぎたんでしょう。何を食べたの?」

「ちがうよ、コウちゃんちじゃないよ」

「おとうさんのところよ。」
と玲子が言う。

「おとうさんのところに行ってたの? 何食べたのよ」
瞳子の声が厳しくなる。

「あのね、ハンバーガーセット。それとスパゲッティセット」

「いっぺんに食べたの?」

「スパゲッティはお昼ごはんだよ」

「しんちゃん、お弁当は?」

「ごめんなさい。食べてない。でもね、おとうさんがいっしょに食べにいこうって言ったんだよ」

「おかあさんはお弁当を作っておいたの。人に作っておいてもらって食べないなんて、いけないことよ。伸也、お弁当を持っておいで」

瞳子の声はだんだん厳しくなる。伸也は母の怒りの様子を察してさっと弁当箱を差し出した。ここでぐずぐずすると、もっとおこられるんだ・・・
 弁当箱の中身は手つかずに残っていた。暑さのために、臭いがおかしい。

「ほら、みてごらん、もう食べられないよ。もったいないじゃないの。それにせっかく作ったにの、無駄にして・・・お弁当をつくるおかあさんの気持ちを考えたことあるの」

「・・・ごめんなさい。」

「ごめんですむと思ってるの」

「だって、おとうさんが…」

 次の瞬間、瞳子は弁当箱を伸也に向かって投げつけていた。中身がこぼれた。伸也は泣きだした。玲子はムスッとして顔をそらしている。

「そんなにおかあさんの作ったものが食べたくなかったら、もう食べんでいいよ。勝手にしなさい。おかあさんは塾にいってくるから」

 瞳子は泣き顔の伸也とこぼれた弁当箱をそのままにして、いつものかばんをもって家をでた。今日は近所の学習塾でアルバイトをする日なのである。

 瞳子は昼間はある会社の事務員として働いている。そこでの待遇は正社員で、瞳子のような母子家庭の母親としては給料もいい。ただし、子持ちの女性としてはいい方であって、同じような仕事をしている男性社員とは比較にならない。

子どもが義務教育の間はそれでもよかった。なんとかやっていけた。しかし、玲子が高校生になって、これからのことも考えると、とても満足できる収入ではない。なにか副収入を考えないと思っていたところ、思いがけないきっかけから、近所の学習塾の講師を週に1度だけすることになった。この四月からである。夜に働くのは週に一度が精一杯だが、講師という仕事は時間の割りには給料もいい。瞳子は中学生に数学を教えている。

 その日も伸也を叱ってでてきたが、塾の仕事だけはきちんとこなした。塾ではきびしいが叱りはしない。落ちついた先生で通っている。アルバイト講師だが、子どもたちにも評判はいい。

 仕事は終わった。しかし、終わっても家へ帰る気になれない。後味の悪さだけが残っている。考えてみれば、あんなに伸也を叱る必要もなかったし、まして弁当箱を投げつけたりするなんてもってのほかだと、冷静な瞳子は思う。しかし、瞳子には許せない感情が沸き起こっていた。それは、本当は伸也に対してではなく、別れた夫に対してだった。

 瞳子は約一年の家庭裁判所の調停により、調停離婚という形で夫と別れた。その調停の中で、夫は子どもたちの親権は一度も主張しなかったし、子どもと暮らしたいとも世話をするとも何もいわなかった。親権を瞳子にするのには意義もなく、子どもたちとの別居にも意義はなく、面接交渉権の定めもすることなく、子どもたちのことに関しては養育費の取決めだけしたのだった。

 最近別れたといっても、もう三年くらい夫は家に帰ってこないでいた。別にアパートを借りて、女性と暮らしているらしかった。ところが、正式に離婚が成立した後、もと夫は瞳子のいない時をみはからって子どもたちに電話をしてくる。そして子どもたちを呼び出している。

さすがに、玲子はほっておかれた数年をよく知っているし、またもう父親と遊びにいきたい年頃でもなかったが、伸也のほうは、遊園地にいこうとか、野球を見にいこうとかさそわれると、ほいほいとついていく。

 瞳子とて、父親と子どもたちを全く切り離そうとは思わないし、会う、会わないは子どもの意志にまかせようと思う。しかし、心中はおもしろくない。父親とあった時の伸也は望むままにお菓子を与えられほしいものを買ってもらい、行きたいところも遊びたいことも思うまま。子育ての苦労も知らないで、いい時だけ父親の顔をしていい親になってと、それが瞳子には腹立たしい。瞳子はおもちゃはもちろんのこと、お菓子代さえ節約しないとやっていけない。それにしつけのこともある。ほしい時にほしいだけ与えるというのには困る。

 それに女性とアパートで暮らしている時は子どもたちのことはほおっておいたのに、どうやら最近、その女性と別れたらしく、別れたとたん子どもたちに目がいくとは、これまた許せない。

どうしてそんなことが瞳子にわかるかというと、伸也の話の中に、「お父さんのところにいるおねえちゃん」の話がよくでてくるからだ。最近その「おねえちゃん」がいなくなったという。伸也が「おねえちゃん」というからには若い人だろうが、夫がその女性を伸也に会わせること自体、瞳子は不愉快だった。

とにかく、夫とその女性の関係は瞳子自身確認しており、わかっていることとはゆえ、子どもたちの誕生日にも卒業式にも入学式にもなんら連絡を寄越さなかった父親が、女性と別れたとたん父親らしくふるまうのは、とても許せることではなかった。

その腹立たしい思いが、自分の作っておいた弁当を食べずに父親とお昼の食事をしてきた伸也に一気に吹き出したのだと思う。伸也の向こうにある、不愉快な父親へ対しての怒りなのだ。

 伸也が悪いのではないと思っても、それでも家に帰る気がしなかった。家に帰りたくないというのは今にはじまったことではない。子育てに楽しさどころか、つらさばかり感じてしまう。そのつらさは、子どもたちに原因のあることばかりではない。仕事で、夫とのことでストレスを感じつづけ、それが子どもたちにもはねかえり、子どもたちも次々にいろんなことをひきおこすといった感じであった。まさに悪循環であった。

 玲子も伸也もそれほどの問題児ではない。ごく普通の子である。そんなことくらいでと人はいうかもしれない。しかし、成績の一つ一つが瞳子には気になった。伸也の忘れ物のの多さが気になった。宿題忘れが気になった。友達関係が気になった。
玲子の高校受験では心底落ち込んだ。大丈夫だといわれていた最初の私立の試験にも落ちてしまったのだから。

どれもこれもさしたることではないのかもしれない。長い人生からみれば誰もが通りすぎていく過程でおこりうることであろう。でも、一人で子どもたちを一人前に育てなければならないという気負いが瞳子を走らせる。それも母子家庭だからと言われたくないという思いが、よけいに瞳子を気負わせる。だからこそ、夫の態度も許せない。

 瞳子はますますむしゃくしゃして、家に帰る気にはなれなかった。

伸也が起きていたらまた叱りたくなる。ついでに玲子の部屋のきたなさにも文句をいって叱ってしまうだろう。

そのとき前に一度行ったこのある居酒屋の前を通りかかった。学校の役員会の打ち上げの二次会で来た店だ。お酒も料理もおいしかったし、値段も手ごろだった。瞳子はそこで飲んで帰ることにした。いつもならそんなことは絶対しないのだが。


 店はすいていた。瞳子はカウンターのすみにすわった。ハワイアンブルーのきれいな色のお酒を頼む。なんだかお腹もすいてしまった。もろきゅうととうふステーキ、トマトのサラダを注文する。冷たいお酒は心地よかった。瞳子はあまり飲めるほうでない。きらいではないのだが、身体がうけつけず、一定量でいつもストップしてしまう。

そのお酒を半分くらい飲んだところで、ドアがあいて、一人の男が入ってきた。男は一人できたらしくカウンターへやってきて、他にも席があいているにもかかわらず、瞳子のとなりに席をとった。瞳子はとなりにきた男をちらっとみたが、まるで映画の俳優のような洗練された感じの男であった。黒ビールを注文している。

「瞳子さんですね、ごいっしょしていいでしょうか」

しばらくして男が話かけてきた。瞳子は驚いた。どうして私の名前を? それにどうして「瞳子さん」と呼ぶのだろう。

「すみません、私はどうもお名前を思いだせないんですが、どこでご一緒でしたか」

「今日が初めてですよ。どうして名前を知っているかとお思いでしょう。いや、私にはわかるんです。あなたの名前も、それにあなたの悩みも」

瞳子は気味が悪くなった。

「私、そろそろ帰るところなんです」

「うそをついてもわかりますよ。あなたは帰りたくない。それにとうふのステーキはまだきていませんよ。」

「マスター…」

瞳子はカウンターの中のマスターに声をかけた。

「マスターに言っても無駄ですよ。ほら、彼には聞こない。瞳子さん、何も怖がることはないのです。私はあなたを誘惑しようとか、とって食おうなんて思ってはいませんし、危害を加えることはありません。ただ、少し話につきあってほしいだけです。遅くならないうちにお帰りになれますよ。まあ一時間ほど、私と一緒に飲んでください」

 いつのまにか、店の中には瞳子とその男とマスターの三人だけになっていた。客は帰っていたし、手伝いの若い子も姿がみえない。マスターは調理をしたりで、カウンターの中で働いている。

なんだか、気味の悪い思いもしながら、瞳子は帰れない雰囲気を感じた。それに、気味は悪いが、この人はそう悪い人でもなさそうだと思えた。人を外見で判断するわけではないが、とにかく、純愛ものの主人公を演じる俳優のように恰好がいい。ものごしも上品だ。もちろん着ているものあかぬけている。どうせ一人なのだし、しばらくならつきあってもいいと、ふと瞳子は思った。危なくなったら逃げだそうと。大通りの角の交番までなら何とか走れそうだと瞳子は考えた。

「やっとつきあってくれる気になりましたね。でも、逃げだそうなんて思わなくていいですよ。私はあなたに危害はくわえませんし、きちんとお家にお帰しします。帰りたくない家でもね」

「あなたは誰なんですか。どうして私の思うことがそんなにわかるんですか」

「そういう質問はしない方がいい。私にはわかるんですから。まあ、名前をしらないと不便ですので、名乗って起きましょう。木村拓哉です」

「まさかSMAP、じゃないわよね。」

「瞳子さんも冗談が好きだ。こんなおじさんがSMAPのキムタクであるわけはないでしょう。同性同名は多いのです。キムラタクヤなんて名前はね」
「まあ、そうですね」

瞳子はこの男の名前は偽名だと思った。しかし、もう追求するのはやめようとも思った。いくら追求しても、この男にはかどわかされてしまう。

 店内は静かだった。BGMだけが流れている。ほんの少し沈黙が流れた。

「瞳子さんの今一番したいことはなんですか」

瞳子の思考をさまたげるように男は聞いてきた。

「一番したいこと、さあねえ、何もしたくない。とにかく一人になって、無意味な時間をだらだらと過ごしてみたい」

「でも、それは自分自身で許せないのでしょう。もし、子どもの面倒もみなくていいし、仕事も休んでいい、さあ、すぐにしてもいいよといわれても」

「よくわかってらっしゃる。私にはできないのよね。それでいて、いつもいつも何もしなくていいことにあこがれている」

「子どもの親権を取ったのに、どこか子どもの存在がわずらわしいことがある、そうでしょう?」

「あら、私がバツイチなんて誰がいいました? そうか、木村さんは何もかもわかるんでしたね。じゃあ、隠してもしかたないか」

「そう、私にだけは隠してもしかたがない」

「子どもってどうしてこう手のかかるものなんでしょうね」

「じゃあ、親権を父親にわたし、父親に養育させればいい」

「そういうことじゃないのです。あんな人に子どもをまかせられますか。子どもを駄目にしてしまいます」

「あなたは矛盾している」

「そう、矛盾している。みんな言うわ。子どもをもってよかったって。子どもがいるからこそいろんなことがわかったし、楽しいし、子どもの存在に感謝しているって。子どもを叱ることは自分の価値観を押しつけることになるので、なるべく叱らないようにしてるって。そういう人もいる。それは私にもわかるんです。でも、ほんとにひとりになりたいって思うことがある。子どもってずかずかと人の心の中に踏み込んできて、人の時間を奪って… そればかり続くと耐えがたいことがあるんです」

「子どもはあなたの時間どろぼうというわけですね。グラスが空いていますよ。カクテルを頼みましょう。とてもおいしいから」

男がマスターに声をかけると、まもなく、新しいグラスが瞳子の前に置かれた。男は同じ黒ビールを飲んでいる。

「あなたは疲れているんですよ。もっと力を抜いていい。いつも、こうあらねばならないと思っている。バツイチは元気でなければならない、子育ては楽しくなくてはならない、子どもはいい子でなければならない、いい母親でなければならない、いつもなにかに挑戦していなければならない、時間を無駄にしてはいけない… いつも、ねばならないにとらわれているんです」

「でも、私はそんなにやってないわ。元気でもないし、挑戦もしてないし、いい母親でもないし…」

「そうですね、でも、やってないことに罪悪感を持っているでしょう」

「そうね、いつも、こんなことではいけないと思うけれど、できないのよ」

「あなたはそうだ。永遠にそうかもしれない。力を抜いて、そんなにがんばらなくてもいいと、どんなに人が言っても、あなたはかわれない。がんばらなくていいと思うように、がんばる人かもしれない」

「なぜでしょうね」

「性格かもしれません。でもできるんですよ。あなたが本気でその気になるんならね」
「わからない。」

「今から一週間すべてを忘れて投げ出してみたらどうでしょう。よかったらお付き合いしますよ。仕事にもいかず、家にも帰らず」

瞳子はキッとなった。

「あら、私を帰さないつもり? 危害は加えない、家には帰すっていったでしょう」

「例えばの話です。あなたにはそれはできない。仕事を首になったら困りますからね。家に帰らなかったら、大騒ぎになりますからね。そんな気持ちが必要だと言ったまでです。少しお腹がすいたでしょう。さあ、どうぞ」

いつ注文したのか、瞳子の前にはチーズのもりあわせと和風サラダが並んでいた。瞳子はチーズやサラダをつまみながら、普段はあまり飲めないお酒がすすんだ。いつのまにか、また種類のちがった、甘いカクテルを飲んでいた。瞳子はまったく顔に出ないので、みるだけではそんなに飲んでいるとは思えない。しかし、この見知らぬ男を前にして、いつもより饒舌になっていた。木村と名乗る男は顔色一つ変えないで、ずっと黒ビールを飲んでいる。あいかわらず店には他の客は入って来ない。

「ついこのあいだパチンコに夢中の母親が車に子どもをおいていて、子どもが死亡するという事件がありましたね。あれは極端だし、非常識な話だが、あなたも、子どもも何もかも忘れる時があっていい。あなたも子どもを忘れられるくらい夢中になれるものをみつければいい」

「あら、ああいう事件のことをひきあいに出して私のことを言ってほしくないわ。一緒にしないでほしいわ。私だって、やりたいこといっぱいあるんですから。ただ、まだしてないだけ。それに、まじめな普通の母親の児童虐待も増えてるらしいけれど、わかるような気がするわ」

「今いっしょにしないでと言ったのに、今度は気持ちがわかるというのですか」

「そりゃあよくないことだけれど、なぜそうなるのか、わかる気がするの。気持ちのやり場がないのよ。コンクリートのアパートで一日ずっと子どもと二人で、子どもは思うようにはならないし…というような場合もあるだろうし、仕事に子育てに忙しすぎて、夫はしらんふり、いらいらして子どもに当たってしまうという場合もあるだろうし。どちらにしても男はいいかげんよ。本当に父親になりきらないで、父親のふりだけするんですもの」

「あなたもそういう父親のふりだけする男には愛想がつきた口ですか」

「木村さんははっきりおっしゃるんですよね。人の嫌なことまで。そうですよ、そんな男には我慢ならなかったんですよ。そんな人と苦労するくらいなら、一人で苦労するほうがずっといいってね」

「でもその苦労がつらい。子どもにあたってしまうってわけか。児童虐待の手前まで行っているっていうわけですか」

「本当に失礼な人ね。私、別に児童虐待なんて…」

「してないというんでしょう。でも、同じようなことはしているし、自分でも本当はわかっていて、だからこそ悩んでいる。瞳子さんは自己矛盾ばかり起こしている」

「そんなことは理屈ではないんです。矛盾していることも全部わかっているんです。でもこの苛立ちをどこへ持っていったらいいの。とにかく何もかも違うの。私の思っていることと同じにはならないの。それにあたっているだけじゃないの。子どもにはもっとよくなってほしいと思うし、よくしてあげたいと思うけれど、現実にはなかなかよくならなくて裏目に出るって感じ。できないの。私はそんなにできた人間ではない。もてあましているんです。ただ、それだけなのよ。わかっているの、わかっているの…」

 瞳子は木村にだんだん腹がたってきた。この男はどこまでも自分の心の傷をさらけ出してしまう。なによ、勝手に話かけておきながらと、瞳子はそう腹立たしく思いながらも、真実をつきつけられて、なんだか、情けないような悲しいような気持ちになってきた。

「あなたを怒らせ、悲しませてしまったようですね」

突然男は今までと違ったように、瞳子に言った。きっと追い打ちをかけられうると思っていた瞳子は意外な目で男をみた。

「瞳子さん、恋をするんですね。そんなにがんばりすぎなくていい。子どももそのうちなんとかなるものです。おっと、こういうとまたあなたは怒りますね。恋をする心のゆとりをもって下さい。本当に恋をしていいんですよ。人間はいつでも恋をしていなくては輝けませんからね。男も女も」

「恋、ですか」

「そうですよ」

「でも、わたしはもう、おばさん」

「いいえ、四十になっても五十になってもその年齢の恋があるのです。瞳子さんは十分魅力があるし、聡明だ。あなたはまじめで賢い人ですよ。だからこそ悩むんです。そんな素敵な人が、それほど自分をせめなくていい。それ以上せめると、あなたの魅力が曇ってしまいますよ」

「言葉どおりに受け取っていいのかしら」

「もちろん。しかし誤解しないで下さい。私はあなたを誘惑しているんではないのです。さあ、そろそろ時間だ。子どもたちはもう寝ているでしょう。帰ったほうがいい。どうです。少しは家に帰る気になりましたか」

 瞳子は不思議な気持ちになっていた。男の言葉がひとつひとつ身にしみるようになっていた。自分自身の魅力など、ここ数年他人の言葉で聞いたことがなかったし、結婚している期間も夫の口からそんな言葉は出たことがなかったし、自分でも考えもしなかった。それに「瞳子さん」と名前で呼ばれる新鮮さがいつのまにか、忘れていた感覚を呼び起こしていた。「おばちゃん」「奥さん」ではなく、「三田さん」でもなく、「瞳子さん」なのだ。なんて新鮮なのだろう、自分自身の名前なのに。

「もう少し話していられませんか」

「今日はおわりにしましょう」

「でも、もうお会いできないと思うわ」

「必要があったらいつでもきますよ。でももう私を呼ばないほうがいい。あなたはこの現実の世界の中でしっかり生きていって輝く人です」

「現実の世界? ではあなたは?」

 男は瞳子の分まで支払いを済ませていた。その時、急に店のドアが開いて、数人の若者のグループが入ってきた。いつのまにか、店のアルバイトの若い子もでてきて、いそがしそうに動いている。二人は店をでた。男は言った。

「それでは、ここで。まっすぐ帰るのですよ」

「ちょっとまって、あなたはいったいどこの人なの。それだけは聞いておきたいの」
と、瞳子はお酒の入ったいきおいからも、思わず強く訴えた。

 男は黙って首を振った。そして、彼は礼儀正しく頭をさげ、夜道を歩いていった。その姿を見送り、思わずあとをおいかけそうになったとき、急に瞳子の身体は氷りついた。

 ほんの一瞬だったのだろう。しかし、身体がうごいた次の瞬間には、もう男の姿はみえなかった。


 瞳子は無駄だとは思いながらも男の後を追いかけたが、当然のことながらみつかりはしない。瞳子は叫びだしたいような気持ちになった。しかし、男の言葉があたたかく心の中で響いていて、少しぐずぐずしながらも、遅い時間にやっと家に着いた。

子どもたちはすでに寝ていた。伸也はなんだか小さく丸まって眠っていた。四年生にもなって気に入りのぬいぐるみと寝る伸也は、この日も一番気に入りの怪獣をそばにおいていた。弁当箱の始末はしたらしく、台所もきちんとかたづいている。ふとみると、テーブルに何か紙がおいてあった。

「おかあさんへ、ごめんなさい。これからはちゃんとおかあさんが作ってくれたおべんとうをたべます。しゅくだい、ぜんぶしたよ。しんやより」

 台所はきちんとかたづけてあった。伸也の部屋も机もかたづけてあった。それが伸也のせめてものおわびの印なのだろう。瞳子の頬を涙が流れた。瞳子は声を出して泣いた。今までがまんし、ためていた心のうっせきが流れでるように、涙があとからあとからこぼれ落ちた。

 九月になった。二学期が始まって、子どもたちが学校に通いだして瞳子はほっとしていた。

瞳子の心の中にはあいかわらず、いつも大なり小なりのイライラが流れていた。子どもたちもあいかわらずだ。玲子は勉強に熱が入らず、好きな歌手の音楽にはまりこんでいるし、伸也は二学期そうそう「忘れ物が多い」と連絡帳にかかれてくる。

そんな状況だが瞳子は以前より冷静になってみつめられる自分を発見していた。決して子どもたちへの目を放すわけではないが、そんなにおもいつめなくてもいいと思えるようになってくると、少し肩の力が抜けてきた。そして自分がもっと変われるような気がしてきた。自分がかわれば子どもたちも変わっていくように思えてきた。

時間はかかる。それも瞳子はわかる。今までやってきたのと同じ時間をかけてかわっていくんだと瞳子は思う。それまでに年齢を積み重ねてしまうかもしれないけれど、その歳にあった輝き方ができるのだと、そんなふうな思いが芽生えている。

 ふとあの木村拓哉を思い出す。あれはいったい何だったのだろう。誰だったのだろう。 瞳子が夢をみていたのにすぎなかったのだろうか。いいや、夢ではない。瞳子は木村拓哉と会い、話をしたのだ。あの男が口にした「恋」という言葉を思いおこすたびに、これからの人生がちょっぴり輝いて見えるのだった。


(この作品はすべてフィクションです)