どちらを選ぶ?

仕事先の会社に新しく入って来られた社員さんは、元探偵業。仕事柄、いろいろな職業の方に出会う機会が多いが、「探偵さん」とお話するのは、初めてだった。

いっしょに歩いているときに、尾行のコツなどお話してもらったが、これがまたおもしろい。しかし、おもしろいなどというのは傍観者の感想で、実際に探偵業をしていたときのストレスは大変なものだったと言われる。24時間、片時も離せない携帯電話。緊張の連続。そして、触れたくないような人生の裏側をたくさんみてしまう。そんなストレスから離れたくて、探偵をやめ、まったく畑違いの仕事に就いたと言われる。

あるとき、彼は何気なく、私に聞いた。
「養子になるということは、扶養の義務も発生するということですね?」

彼の話は続く。
「実は、探偵時代に依頼を受けたお客さんに気に入られて、養子にならないかという話があるのです。夫も子どももいなくて、何億という財産を持っている方です。もう70歳に近い方です」

「その方にご兄弟はおられるのですか」と聞いてみた。配偶者や子どもはいないが、その女性が一番年上で、弟や妹がまだ元気でいるとのこと。彼女が亡くなったあとは、今のままではすべての財産を弟や妹が相続することになる。そして、その子どもたちへと受け継がれることになる。相続できるはずだった財産、養子ができたりすると、そうはいかない。「財産目当ての養子だ」と、「争族」になりかねない。

「ほんとにその方の面倒をみてあげたいと思うのですか。そう思うのならいいけれど、財産をめぐって争いが起きて、大変なことになるかもしれませんよ」
相続のしくみも簡単に説明する。
「やっぱりそうですか」

彼のこの話は、彼自身が飲み会で話したらしく、会社でもうわさになっていた。
「僕だったら絶対に養子になる!」など、何億というお金を前に、無責任な言葉も飛び交っている。
なぜ、彼は迷ったのか。 頭から話にならないことなら、迷う必要もない。でも、何億という財産を目の前にすると、誰だって迷い、考えるだろう。それだけのお金があればと、どこかで計算してしまう。私だって…
「今の仕事に出会えてありがたいと思っています。今の仕事も大変だけれど、あの探偵業には戻りたくありません。夜、安心して眠れることがうれしい」

彼はそんなふうに話してくれた。それなら、なおのこと、「争族」に巻き込まれないほうがいいと思う。もし、私がそういう立場にたったら、目の前の「億」という財産を捨てられないかもしれないなとは思いつつ…  私が話をできるのはそこまでだ。決めるのは彼自身だ。

人はいろいろな場面でいろいろな選択をせまられる。お金がからむと、なおさら難しい。さあ、どちらを選ぶ? 選択肢の向こうにある幸せをじっくり考えたい。
現在彼のいる業界は低賃金のケースが多く、彼の場合も例外ではない。

「これで、もう少し給料が上がったらいいのですけれどね」
といって、彼はにっこり笑った。そういう表情から、彼の選択がみえるような気がした。