小説 策略 午後4時。ようやく最後の原稿を書き上げた。急いで制作室へまわす。資料などで散らかった机をかたづけながら、野田修子は退社時間までにすませねばならない雑用を、頭の中で整理する。今日は、どうやら定時に帰れそうだ。 このところ仕事がたてこんで、とても忙しい毎日を送ってきた。修子は地元の雑誌社に勤めている。そんな大きな会社ではないが、この都市ではけっこう名もしれている。業績も安定している。 修子の仕事はタウン誌の編集だ。企画から、取材、そして記事を書くという一連の仕事を小人数の担当でこなしている。 この会社に勤めて10年になる。タウン誌の読者特派員に応募し、その町の情報を短い文章にして提供するという、簡単だが楽しい仕事をしているうちに、当時の編集長と意気投合し、すっかりいい友人になってしまった。そして一年後、修子がある事情から真剣に求職活動をしていたときに、編集長の推薦でこの雑誌社に就職したというわけだ。 修子にとっては願ってもない仕事だった。編集などという仕事にはまったくのしろうとだったが、文章を書くのが好きで、いつかは作家になりたいと真剣に思っている修子にはおもしろい仕事だった。ただしめきり間際になると忙しく、残業もたびたびで、子育て期の母親にとっては、つらい時もあった、しかし、仕事自体はおもしろい。一人娘が大学生になった今は、楽しんで仕事をしている。
「どうやら間に合ったようだな。お疲れさん。ところで、あのひとり親家庭の特集はなかなか評判がよかったじゃないか」
最近とりあげたひとり親家庭のシリーズの反響は予想をこえて大きかった。 当然、企画をした修子にかかってくる電話は増える。ファックスやメールも送られている。その中でまた次の企画とむすびつきそうな人には会って話を聞くこともある。
「とにかく、みじめさがないのがいい。元気がでるよ。それに……」 修子にとっての仕事の面白さは、文章を書くということだけでなく、いろんな人との出会いにもあった。電話だけでも、どれほど多くの未知の人と話すことだろう。
電話がきりかわった。電話の向こうは女性の声だ。 一瞬、修子はわけがわかならなくなった。坂本という名は忘れるに忘れられぬ名であった。最初電話の取り次ぎで「坂本」と聞いたとき、頭の中をかすめないわけでもなかったが、記事の特集の件で読者からだと思ったし、第一、同じ姓は多く、これまでも何人もの坂本さんにであっている。しかし、電話の向こうの女性は、野田修子に対して、坂本孝志の妻だとはっきり言う。 坂本孝志とは半年前、もう二度と会いたくないくらいの気まずい思いを残したまま、別れた人である。それ以降、人づてにうわさを聞くことはあったが、修子の人生とかかわりはない。妻子のある坂本孝志と四年間交際し、修子のほうから別れを切り出したのだ。 とにかくもう半年前のことである。その坂本の妻がいったい今頃、何の用なのだろうと修子にはわからない。
「突然ですみませんが、会っていただけないでしょうか。お電話では話せませんから」
修子のまわりにはまだ社員が仕事をしている。話していても気が気でない。
「わかりました。早いほうがいいのでしょう。私、今日は定時で帰れます。五時には退社できますが」 修子は複雑な気持ちで電話を置く。しかし、考える余裕もなく、仕事の電話がかかる。冷静さをよそおいながら対応し、仕事をかたづけ、5時10分にはタイムカードを打つ。 そこで、家に電話をした。今日は早く帰って娘と夕食を取ることにしていた。また遅くなりそうだ。 修子は大学生の娘、郁子とふたりで暮らしている。ふたりになったのは、9年前、郁子が小学校の3年生のときだった。それは離婚が成立したときであって、夫が家を出ていったのはもっと前だから、10年以上はふたりの暮らしを続けている。 夫とは家庭裁判所での調停の末、離婚した。夫のサラ金問題が原因にはなっているが、ほんとうはそうではなかったと思う。 夫とのすれ違いは、郁子を産んでから始まるようになった。それまでは共働き夫婦として、生活もらくであったし、夫婦でいい暮らしをしていたと思う。しかし、郁子が産まれて、修子が仕事を辞めると、生活は苦しくなった。いや、夫の給料でも十分暮らしてはいけたが、それまでのぜいたくから、なかなか切り替えることができなかった。 その一方で、子育てや家事を自分のこととしてやろうとしない夫に対して、修子はしだいに不満をかさねていった。 夫は子どもをかわいがりはしたが、なにもかも修子にまかせきりであった。生活費のたしにと、郁子が3歳のときから、近所の個人経営の会社でパートとして働いたが、それでもやはり家事の負担は修子にだけかかった。また、外へ働きにでたことによって修子の行動範囲は広がった。活動的な修子の世界が広がるにつれ、夫はしだいにそれをこころよく思わない様になってきた。修子がどこかへいってしまうような不安を感じたのだろう。修子の行動を気にし、制限し、修子はそれに耐えられなくなってしまったのだ。
家に電話をすると、郁子は帰ってきていた。おそくなるから、ご飯作っておいてという母親に対し、 この喫茶店には、時々昼食にやってくる。いつもはお弁当持参なのだが、月に一、二度はここでランチを楽しむことにしている。静かな雰囲気で、奥の席にすわれば、あまり目立つこともなく、話もしやすい。 修子がやってきたときには、何人かの客がいた。ただ、修子には坂本千枝子の顔はわからない。みまわしたおところ、奥のすみの席から、ひとりの地味な装いの女性がこちらをみている。近寄ると、その人は坂本だと名乗った。 コーヒーを頼むと、ふたりの女性は向かい合う。 野田修子は今年四十二才。ショートカットの髪を明るすぎないブラウン系に染めている。ソバージュの長かった髪は半年前に思いきって切っている。そのとき同時にピアスをした。そして今年流行のワンピースにレースのカーディガン。お化粧もはっきりしている。洗練された、きりっとした雰囲気にあふれている。とても十八の娘の母親だとは思えない。髪を切ってからは実際の年齢よりずっと若く見える。 坂本千枝子、四十八歳。白いブラウスにベージュのスカート。肩まである髪はきちんと後ろで束ねていて、清楚に見えるが、少し白いものもまじり、それを隠そうともしていない。整ったきれいな顔立ちの人であるのだが、やつれた感じがただよい、薄化粧がかえって顔色の悪さを隠せない。 修子は千枝子をみて、一昔前の自分をみているような気がした。今でこそ、おしゃれする、髪もそめる、いつもマニキュアをきれいにつけるということはしているが、かつてはパーマけのない髪を無造作にたばねるだけで、お化粧もそこそこに、いつも子どもをおぶったり手を引いてりして、子どもの着替えや書類をいれた大きなバッグをかたにかけ、ジーパンにスニーカーという格好だった。若いのに、生活にくたびれた姿だった。
「わざわざおよびたてしてすみません」
「それは、ご主人とのことですね。ご存知なら隠してもしかたないですから、言いますが、ご主人とはおつきあいしてました。でもそれは……」 「もう、終わったとおっしゃるのでしょう」 「そうです。半年前に別れました」 「それなにの、なぜ今ごろ何のようがあるのとおっしゃりたいのでしょう。主人とあなたがつきあっているのは、わかっていました。最初はもちろんいろいろと悩みましたよ。でもそれはいいんです。問題は別れたことなんです」 「ご主人がどうかされたのですか」 「主人は何もいわず、また私のところへ戻ってきました。戻ってくるという言い方はおかしいですね。あなたとの交際中もずっと家に帰ってきていたし、外泊することはなかったし、その間に家も新築しましたし、家では普通に父親をして、普通の夫でいようとしていました。私につらくあたるということもありませんでした。だから、もどってくるという言い方はおかしいですが、最近は以前にもまして、私と夫婦らしくしようとしてきたのです。すっかり希薄になっていた私と夫婦としてやっていこうとしてきたのです」 「そうですか、では、ますますわからないのですが、それで不都合があるのですか」 「わかりませんか。あなたにはわからないでしょうね。夫がもどってきたということが困るのです。どうしてあなたは主人と別れたのですか。もう少しだったのに」 「もう少しって?」
「どのくらい、うちの主人とつきあっておられたのですか、四、五年といったところなのでしょう。それを私が許せると思いますか。最初わかったときはショックを受けました。でも、しばらくして立ち直ることができました。なぜなら、私にはそれ以前から離婚願望があったのです。 千枝子はそこまで一気にいって、さめたコーヒーを口にした。いったい何事だろうと、思って聞いていた修子にはとっては、以外な事実が飛び出してくる。 「あなたを怨みましたよ。なぜもう少し主人とつきあってくれなかったのですか」 修子には返す言葉もない。妻子ある男性と交際していて、その妻から交際していることを責められることは当然あろう。しかし、坂本の妻は、別れたことを責めてくる。 「私は主人をあなたにお渡しするつもりでした。主人もあなたのことは相当好きだったのでしょう。あなたが主人を断ったのですよね。わかっています。主人の落ち込みような大変なものでした」 「ご事情はよくわかりませんが、ご主人と別れたことで責められてもそれは困ります。第一、もうどうしようもありませんから。冷たい言い方ですけれど」 「あなたの企画されたひとり親家庭の記事をみましたよ。確かに自分の気持ちに正直になって、本当に困難な中、離婚し、子どもを育ててる母親ってすごいと思いますよ。私なんかそれに比べると、いくじがないのかもしれません。でも、別れたくても経済的な事情で別れられない妻も、多いのではないでしょうか。あなたにはそんな妻の気持ちがわかるのですか。失礼ですけれど、あなたも離婚を経験されてるけれど、あなたには仕事もあって、離婚で幸せになったひとりなのでしょう」 修子は腹立たしい思いがした。自分の離婚のことを思った。修子とて、壮絶な離婚騒動を経験し、子育てと家事と仕事に苦労して、今の自分があるのだ。 確かに今、修子はみじめなくらしではない。一人娘を大学へやっているし、やりがいのある仕事をし、少し自分のおしゃれにもお金をまわせるほどの収入も得ている。しかし、それは天から与えられたものではないのだ。自分自身が努力し、手にいれてきたものだ。 この坂本千枝子という女性は、そんなこともせずに、ただ修子を攻めにきている、そんな気がした。なんだか、ばかばかしく思えた。
「私は自分で離婚を決意し、どうすれば子どもと生活していけるか考え、そのための努力をしていきました。人まかせではありませんでした。仕事にはめぐまれましたけれど、女ひとりで生きていくって大変でしたよ。自分で考え自分で行動し、今の私があるんです」 「私を非難されるのですか。他力本願だと。離婚したければ、そうすればいいじゃないかと。そうですよね。私は自分では主人にぶつかろうとせず、他人を利用し、策略をねっています。卑怯というのですか」 「そうとはいいませんが、私がご主人と別れたからといって、私に苦情をいうのは筋違いでしょう。私にいったところで、どうにもならないことです。それにもう、坂本さんとは何も関係もないのですから」 「無駄なことは承知で来ました。でも言わずにはいられない気持ちなのです。あなたに主人と別れる方法を教えてもらおうかしら。よくあの難しい人と別れられましたね」 「いくらなんでも、そんなことをおっしゃるのは失礼ですよ」 「失礼? それはあなたにはいえないことでしょう。人の主人とつきあって、主人の心をとりこにして、そして別れる。私はそれにふりまわされる。やっと離婚を言い出そうとしたときには、主人は私のところへもどろうとしている。私はもう主人と生きていくつもりはありません。いい妻としての演技にも疲れたし、もう一度夫婦としてやっていこうとは思いません」 「奥さんがなにもかも知っているということを、ご主人はご存知なのですか」
「知らないでしょう。あの人は隠しとおせていると思っていますから。私はそれが恐いのです。好きな人ができて、そのことで悩んで、それが表面に出て、わかるくらいの方が人間的にいいですよ。恋人ともつきあって、妻ともそれなりにすごしてという方が、恐ろしい。しかも何年も。まだ、別れてくれっていわれる方がすっきりします。他の女性といっしょになりたいから別れてほしいといわれる方が、まだましです。それもせず、家庭は家庭、恋人は恋人と、両立させるなんて、人間として許せないですよ。 しばらく沈黙が流れた。
「どうしようもなく、あなたに一言苦情がいいたくて来ました。恥ずかしいことでした。帰ります。でも、離婚してたくましく生きている女ばかりではないのですよ。世間では離婚も普通になってきましたが、離婚したくても離婚できずにいる女がいることも現実なんです。 千枝子はコーヒー代をテーブルにおいて、帰って行った。ほんとうに、千枝子は言いたいことを言って帰って行った。 修子の頭の中は混乱している。時計をみると、六時半をまわっていた。
家では郁子が待っているだろう。とのとき、修子の携帯電話がなる。 早口で郁子は用件を言うと、電話をきる。近くに下宿しているボーイフレンドのところへ行くらしい。良平くんは今時めずらしい素直な男の子だ。家にもやってくるし、郁子のボーイフレンドとしてはいい子だと思う。 郁子がいないなら、早く帰ってもしかたがない。かといって、今の修子には呼び出す相手もいない。女友だちはこんな時間に急に呼びだせない。 雅代のスナックのことが頭に浮かぶ。加納雅代は郁子の同級生の母親だ。同じように離婚体験者であり、娘どうしが仲良かったものだから、母親どうしもすっかり親しくなっている。 雅代は料理店の厨房で働いていたが、今は自分の店をもつようになっている。小さい店だが、なじみのお客も多く、けっこうはやっている。しかし、それでも不況の影響をうけ、ひところよりは苦しいそうだ。 雅代のスナックにはめずらしくカラオケがない。静かにお酒をのめる。修子はそれが気に入っていて、実は坂本とも何回か来たのだが、その雰囲気にひかれている常連客がついてる。そういえば、坂本と別れてからは、一度も来ていない。雅代とも久しく会っていない。 やはり、雅代の店に行くことにした。ここからはそう遠くはない。町のにぎやかなところにあるが、歩いても十五分だ。 夜になると風はやや涼しい。九月に入って暑さがやわらいだ。ほんとうに暑い夏だったと思う。 修子にとっては、自由で、きままなくらしが続いている。デートの予定がないことは寂しくないこともない。 修子は疲れていた。9年前に離婚して、本当にひとりで子育てに苦労してきて、そんな中で出会ったのが坂本孝志だった。 取材で知り合ったのだが、大手企業の部長職である坂本は、忙しい仕事のあいまに、修子を食事にさそったりして、修子に近づいてきた。修子もさそわれるままにつきあい、疲れた精神にはその優しさが心地よく、自然とつきあうようになっていった。 坂本に妻子がいることは、初めからわかっていた。つきあうようになって、坂本が妻と別れてまでも修子といっしょになりたいと思っていないこともわかったし、家庭は家庭で大事にしていることも十分察することができた。 それに修子とて、もう一度結婚しようとは思いもしなかった。親戚のおばさんがお見合いの話ももってきた。別な男性に、結婚を前提につきあってほしいといわれたこともある。しかし、修子は二度と結婚しようとは思わない。もう男性と暮らすのはこりごりだった。 結婚しようといわない坂本とは、かえって抵抗なくつきあえた。会社でも要職にある人だったから話もおもしろかったし、とにかく修子を大事にしてくれたので、それに酔ってしまったこともあろう。修子には娘がいて、娘をおいて夜などは出にくかったから、そうそう会う時間もつくれなかったが、月に一度くらいは時間をともにしていた。 雅代の店はまだ開店したばかりで、客は二組ばかり。雅代はカウンターできびきびと動いている。ほかに若い子がひとり。忙しいときはもうひとりアルバイトの子がくることになっている。 「久しぶり。よくきてくれたわね」 突然やってきた修子を雅代は歓迎してくれる。修子の好みのカクテルがいつのまにかできている。
「今日はひとりなの? 彼とおしまいになったのかな」 「どうしてわかるの。私、まだ何もいってないわ」 「この仕事をしてるとそれくらいわかるのよ。それに修子ちゃんのことはよくわかるわよ。だいたいあの人に修子ちゃんはもったいないよ。もっといい人がいるって。まさか落ち込んでいるんではないでしょう」 「私から別れたいって言ったから。それはいいのよ。なんだか、また前の結婚のときのことを繰り返しそうだったの。私、また、我慢してるんだ。最初はただ大事にしてくれたのだけれど、私を束縛してくるのね。自分の所有物のようになってくるの。それが耐えられなくなってきてね。私もひとりの感情のある人間なんだってことがわからないのね」 「でもよくそれで向こうは納得したわね。そんなこといったって、わからないでしょう」 「そうよ。自分が悪かったと誤ったり、怒ったり、泣いたりと、ひととおりなんでもあったわ。でも私は何もこれ以上しばられることもないと、そう思って、最後はそんなにいうなら、会社にも奥さんにもあきらかにするよって、そこまで言っちゃった。言いたくはなかったし、そんなことするつもりもないけれどね」 「そう。それで今はまた、フリーなわけ?」 「うん。なんだか疲れちゃった」 「じゃあ、ゆっくり飲んでいってよ。ひとりで飲むお酒もおいしいものよ」 雅代は忙しい。また新しい客がくる。修子はゆっくりカクテルを飲んで、ひとりで物思いにふける。 千枝子の一言ひとことが頭の中をかけめぐっていく。妻も恋人も両立させていたのが許せないと千枝子は言った。それは修子にもいたいほどよく分かった。 修子は坂本といっしょに生活したいとは思ったことがない。坂本もそれは決して口にしない。しかし、修子は彼の妻よりは自分が上であってほしかった。妻とは別れなくてもいいから、自分が一番であってほしかったのだ。家に帰ったら、妻との間で苦しい思いをしていてほしかった。 ところがある人の話からそうでないことを知った。家を新築したことことも聞いた。妻とふたりで旅行していることも知った。千枝子が言ったように、結婚の仲人も引き受けていることを聞いた。 修子は、妻と自分とをうまく使いわけている坂本が許せなくなってしまったのだ。つきあいが長くなるにつれ、束縛され、自分の所有物のように扱われることも、数ヵ月前からいやに思っていた。いったんいやに思い出すと、もうどうしようもない。よく訳がわからない相手に対し、強引に別れを宣言してしまった。そして、向こうから、なんといわれても会わなかった。
「ほおっておいてごめん。話があるんでしょ」 「アルバイトの子がきたし、今なら大丈夫よ」 みると、アルバイトの子がふたり、これも雅代ににて、てきぱきと飲み物や料理を運んでいる。修子はかいつまんで、今日の出来事を雅代に話した。 「修子ちゃんはいやな気がしただろうけれど、その奥さんもかわいそうね。そんなにして、離婚の計画をたてていたなんて」 「でもなりゆきにまかせて、何もしないのでしょう」
「確かにそれはそうよね。それに、修子ちゃんに苦情を言うのは筋違いよ。でも、それが現実なのかなあって気がする。 「そういえばそうかもねえ。私が離婚したものは三十代だったから、仕事さえあればなんとかやっていけるってそう思えたわ。雅代さんはもっと大変だったものね」 「最初は生命保険会社。これは子どもをとにかく保育園へいれるため。仕事先がないと入園できないしね。けっこう契約もとったけれど、手出しが多くて生活が厳しい。私は事務とか経理とか不得意だったし、なんの資格もないし、いろいろ仕事も変わって苦しい時代だったわ。料理店へ勤めるようになって、そこでいろいろ覚えたとときに、おばあちゃんの遺産が入って、この店をもてたんだもの。でも若いからやってこれたし、どうしようかって考える暇もなかったから、やってこれたんだよね」 「私たちはこうしてなんとかやってるし、離婚してきちんとやっている人はいっぱいみてきたけれど、あの奥さんの言うように、それ以上に我慢を強いられて結婚生活をしている人も多いのかもしれないのね」 「この前、新聞の投書でみたけれど、夫の暴力に長年我慢してきて、はじめて、やり返したと書いてあったのよ。そして、それを読んだ読者の反響が載ってたけれど、よくぞやってくれたとかいうのもあったのよ。読んだ?」 「ううん、見てないわ」 「私なんか、どうしてそんな夫といっしょにいるの、さっさと別れればいいのに、なんで、暴力まで振るわれて、まだ夫婦しているのって思ったわ。一回くらい殴り返して、それがなんだって思ったわ。そんなことぐらいで、やった!、なんて思ってどうするのって」 「私なら、すぐ別れることを考えるでしょうね」 「でも、その人は別れらないのよ。別れたくてもね。たった一回の反撃がせめてもの抵抗なのよ。悲しいじゃないの」 「そうよね、悲しすぎるわ」 「この日本には、離婚の自由がないのよ。どんな生き方をしても生きていける。それがあってこそ、自由といえると思うわ。結婚して、子どもがふたりいて、そういう型からはずれると、生きにくい世の中よ」 「離婚の自由がない、か」 その時また新しい客がやってきて、雅代のなじみの客らしく、雅代はその相手に忙しくなる。 離婚の自由がない、考えてみればそうだろう。離婚したって生きていかなければならない。食べていかなければならない。最低時給660円などという賃金で、8時間働いても、人間らしいくらしはできるか。 中高年のひとり暮らしの女性が家を借りるもの大変だ。夫婦でいれば老後の年金もそれなりにはあるが、女ひとりになったとたん、それもあやういものになる。どんな生き方をしてもいい、どんな選択をしてもいいとは建前で、はずれた生き方を選択すると、惨めな暮らしがまっている。それが、この世の中の、この国の現実なのか。 ひとりの女性が自分らしい生き方をとりもどすため、離婚を決意し、その策略をめぐらした、それを結果としてはつぶしてしまったのだと修子は思ってみる。修子自身が自分らしさをとりもどすために別れをつげたことが、ひとりの女性の運命を狂わせてしまったのだとも思う。 千枝子はいろんな障害を覚悟で離婚にむかって進んでいくのか、それともあきらめて、我慢して、仮面夫婦としてすごしていくのか、それとも、もういちど夫婦としてやり直す努力をするのか、どんな選択をするのだろう。千枝子自身が言うように、三番目がありえないとしたら、あまりにも厳しいし、ひとりの人間として悲しすぎると思う。 修子は雅代の店をでた。
別れ際に雅代が言う。 「よけいに思うわ。どうしてみんなこうなのって」 「そんなことないよ。あなたはがんばりすぎて、でも本当は寂しくて、そんなときに男の人に声をかけられるから、本当に人を好きになってないのよ。本当に好きになれば、きっと考えがかわるし、修子ちゃんはそういう人とめぐりあって、もっと幸せになっていいと思うのよ。別にそれだけが幸せではないだろうけれど」 「でも、そんな人がいるのかしら」 「意外とおもいがけないところから現れるかもしれないから、あなたは今のまま輝いていればいいのよ」 修子は家路に向かう。なんだか、女の悲しさをみたようで心は重い。がんばるひとり親家庭の特集はして、たくさんの反響はあったけれど、そういう選択さえできす、自分を殺して生きている人もまた多いのだと知り、どうしようもないものを感じてしまう。これが現実なのか、この時代の到達点なのかと思うと、ますます心は暗い。 しかし、修子は精一杯自分らしさを求めて生きてきたし、今も生きている。修子がそういた生き方をしめしていくことは、ちっぽけなことなのかもしれないが、娘やあとに続く女性たちへの励ましになるのかもしれない。
夜道を歩く。家々のあかりが暖かく見える。このあかりの下にはそれぞれの生活がある。ドラマが展開している。自分らしさを求め、がんばり、我慢し、修子は生きてきた。もうそろそろ暖かさがほしい。自分らしささえ求められない女性たちがいるなかで、修子は幸せなのかもしれないが、もっと貪欲に幸せを求めたいと思う。たった一度生きるだけなのだから。 |